【インタビュー】へき地保健師たちに聞く、暮らし・仕事INTERVIEW 後編


島根県の離島、隠岐諸島4島のひとつ、知夫村で働く3名の保健師(山本久美子さん・分藤美和さん・戸谷紗嘉さん)にへき地保健師の暮らしや仕事について話を聞くインタビューの後編。

INTERVIEW:2019.7.31-8.1


※前編 彼女たちが知夫村の保健師になるまで はこちらから


後編:島の"生まれる"から"命の終わり"まで〜島民の暮らしや生き方に寄り添う〜


島ならではのお産

【島の人は9割が本土で出産。でも生まれるまで時間もあるし島に残る家族も気になるし】

 分藤:島では出産が出来ないため、妊娠36週で島を出ないといけないんですよ。隠岐諸島の一番大きい島にある隠岐病院(※ざっくりマップ参照)か、本土の産院のどちらかでお産されるのです。

立場的に、、36週には(船で)出てくださいと伝えてるのですが、心苦しいんです。
特に上にお子さんがいる場合とかは・・・連れて行くのも、置いていくのも悩ましいじゃないですか・・・

今はIターンの人が多く、島にゆかりがない人がほとんどです。さらに島根県にも縁がない方も多く、そういう方はお産までホテルで滞在されるんです。

知夫村独自の補助で、本土のレインボープラザホテル(※ざっくりマップ参照)の宿泊助成制度があります。ホテルは隠岐4町村と提携していて、ホテル内に簡単なキッチンもあります。例えば人参とか野菜を買ってきたは良いけれど、いつ産まれるか分からないでしょう。結局料理はせず、スーパーのお惣菜に頼りがちです。栄養バランスも気をつけたいけど悩ましいって言われます。妊婦さんがお一人で陣痛がくるまでホテルで過ごされるってことなんです。

別のホテルで滞在される場合でも利用できる滞在費の補助制度もありますし、本人のみならず、付き添いの宿泊費も補助対象です。もちろん予定日を超過しても助成は効きます。

でも、ビジネスホテルでいつ来るかわからない陣痛を待つと思うと・・・。上の子のことも気にかかるだろうし、大変だなと思いますね。

山本さんはどうでしたか? 



【山本さんのお産の話】

山本:私ですか?!

私はね、当時一人保健師だったとき、産休に入る前に生まれたんですよ。その日の前日には、車を運転して健康相談をしていましたが…。翌朝には、どうやら生まれそうだみたいな。

数年前まで助産師さん(当時の名称は産婆さん)をされていた地元の70歳代の方にお世話になり、自宅で産みました。

その後、保健所の保健師さん(1年前まで私も働いていた黒木保健所で上司だった方)が家庭訪問をしていただき、とても心強かったです。新生児期に保健師が訪問することがどれほど母親にとって安心感があるか身をもって知り、ありがたかったです。体重を測ってもらって“母乳が出ているのか”また、いろんな不安なことも聞いてもらいました。今では笑い話になるけど、初めて赤ちゃんがしゃっくりをしたとき、鼻が詰まったとき、そしてちょっとしたことが不安でした。やはり初めての子どものときは、不安でしたよね。第1子の時には、陥没乳頭でもあり、小さかったので哺乳力がなく、時には、搾乳機で絞り、哺乳瓶で与えたりしました。第2子は大きく生まれ吸ってくれて楽でしたけれど。(笑)

本当に第1子の時は助産師さんや保健師さんが神様のような感じでありがたかったですね。
その経験があるから、現役の時は、新生児訪問時は赤ちゃんの相談もですが、お母さんの体調・不安を聴いてあげる時間を大事にしましたね。 


山本:またエピソードがあります。お母さんへの支援はお姑さんへの対応もありました。38年前のことですが、訪問した時、「産婦には、ご飯と梅干しを食べさせとけば良い。」と産婦さんにお姑さんが言われた家庭がありました。当時はお嫁さんからは言えない環境だったので、保健師からお姑さんに食事の話をすると、「今はそんなもんかと。」と理解していただきました。

今もどんどん保健指導内容も変わっていく状況があります。そのことを保健師がお母さんに伝えていく必要があるし、その人だけでなく家族とか周りの話も聴き、解決していくべきことがあれば、保健師は、家族関係も含めた周りの環境調整も整えていかないといけないなと思います。 


元気なうちから自分たちで終末期を考える

分藤:知夫で生まれて知夫で終わりを迎えたい。そう語る高齢者の方は多いです。とりわけ終末期を迎える高齢者が島内で増える中、この離島という、できることが限られる地域で住民一人ひとりがどのような医療や生活を望むのか、また本人が人生を振り返りどう生きてきて、これからどう生きたいのかを明らかにしていこう。そうすることで周囲に何ができるのかを村の中で話し合っていこうという気運が徐々に高まってきていました。このような流れの中で、2016年に診療所が中心となって高齢者サポート会議が発足しました。保健医療福祉の専門職が集まる連絡会議です。

サポート会議では、まず終末期に関するパンフレットを作り診療所に置きました。それから、地域のどんな方でも気軽に立ち寄って交流したりお茶を飲みながら集ったりできる"通いの場"という場所ができました。通いの場では住民から希望があれば保健師が相談にのることもあります。
そして雲南市への視察などを経て、2018年に地域包括支援センターの予算でサポート会議内でエンディングノート勉強会を行いました。その上で知夫版のエンディングノートが完成しました。

 2019年にようやく住民向けの講習会を開催することができました。最初のころは、お医者さんから講義形式という形でお願いしていたんですけど、目が悪いとパワーポイントが見えないという声もあって、去年から座談会という形にしました。これまでは保健師主体でやっていたのですが、看護師さんも入ってもらって。
終末期のことを元気なうちから考える。エンパワメントしていく面白さというのを感じます。だんだん住民の人達が自分達で話して、自立して、「困った時だけまた助けてなー」という形で歩いて行かれて。住民の力ってすごいなあと思います。


【住民の意見に耳を傾ける場を作ることが村を変える】

山本:仕掛けは行政保健師から働きかけるのですが、その後は住民自ら動かれ、エンパワーメントが弱まったときにちょっと手を差し出せば、また住民の力は動き出しますよ。知夫診療所のお医者さんとの座談会では、役場や診療所への要望も聞き、その要望を基にプライバシーが保てる診察室の扉に変え、バリアフリーの玄関に改修するなど小さな声をひとつずつ聞き、役場も予算化し環境改善に繋がりました。

住民の意見に耳を傾ける場を作ることが村を変えるんだと思います。最近は人口が増えて、島外から来た人たちの要望の力も大きいと思います。 

今、「知夫版エンディングノート~もしもの時に大切な人に伝えたいこと」※を保健医療福祉介護関係者が一堂に会した月1回の高齢者サポート会議で作成中です。医療者側からも介護関係者からの事前にその人の願いを把握していたら、より適切な支援ができるという思いで。今後、診療所の医師が中心になり、人生会議を住民の方に呼びかけ、「知夫版エンディングノートを普及する予定です。


※「知夫版エンディングノート~もしもの時に大切な人に伝えたいこと」は、「知夫村で自分らしく生きるノート~大切な人に伝えたいこと」に変え、完成し、普及しています。 既に持ち帰り、書き始めている方ももいます。

また、エンディングノート普及の一端を担うものとして、私が伴走者をしている今年で2年目となる知夫小中学校3年生の総合学習があります。これは、高齢者の方に、最期を迎えるまでの過ごし方や最期をどのように迎えたいかを考えてもらうためには、先ず高齢者ご自身に今までの人生を振りかえってもらい、その生きざまを家族が知ることができるフォトブック「人生ブック」(2019年度は名称を「だんだん物語」に変更)を作成する授業です。この授業の最終は住民も参加できる成果発表会です。


※知夫村での活動経過 

2016年度:高齢者サポート会議(以下サポート会議)が発足 

2018年度:通いの場スタート 

2018年度:サポート会議内でのエンディングノート勉強会がスタート 

2019年度:サポート会議が主体となって案を練り、”知夫板エンディングノート”の完成、医師による住民対象の座談会がスタート 

2019年度:訪問介護もスタート(主にガンなどの終末期の方を中心に)



【島で“命を終える”を考える上で】

~島の高齢者と、島外に出た子どもをつなぐ役割~ 

山本:村の家を守っている高齢者の思いを島外の子どもさんたちに繫げていかなくてはならないと感じています。高齢者の人と将来の話をすると、

「ほんとうは、自分のことを子どもはどう思ってるんだぁ?と聞きたいけど、年に一度盆にしか帰らないのに、楽しい時間を過ごしたいのにそんな暗い話をするのは悪くて…。なかなか話ができんのんだぁ」

って話されます。

 必要時には、保健師や医療従事者、ケアマネそして介護スタッフが島外の子どもさんに連絡をとることもあります。地域ケア会議などでキーパーソンは誰にすべきか?誰に繋いでいくかなど話し合います。その高齢者の人たちの思い・悩みは、子どもさんより私たち保健医療福祉関係者が把握していて、そのことを子どもさんたちに繋ぎ、ケアマネージャーや医療介護関係者との連携により、その高齢者にとってなにが一番良い方法なのか考え、島外の子どもさんと話し合います。 


【島での人間関係構築】

~出されたお茶は飲む~ 

山本:保健所の保健師時代に結核検診で排菌が出た患者に入院を勧めるための訪問をした時に、お茶を出されて遠慮したら、「菌が出ているから飲めないのか」と言われ、「そんな事はありません。」と飲みはじめたら、それからいろんな本音を出され、入院を快諾していただいた経験があります。
そういうことで信頼関係を得ることもありますね。やっぱりいろいろ失敗して一人前になっていくと思うので、若い人にはいろいろ体験してもらいたいですね。 



【相談相手は海を越えて】

~島外の保健師さんたちの存在~

山本:当時は村で一人保健師であることが長かったので、保健師の立場で悩みを共有できる人は、隣の島の保健師さんや保健所の保健師さんたちでした。西ノ島町や海士町(※ざっくりマップ参照)の保健師さんに保健所の会議などで会った時や電話で相談していました。 

もう一人は、高校の同級生で夏休みの研究で地元の保健師さんの活動を一緒にまとめた広島で保健師をしている親友です。その彼女とは仕事の話や家族の話をし、励まされたり癒されたり元気をもらいました。

長く働き続けるためにはそういう人の存在が大きいですよね。ちょっとしんどい時に相談するっていう人が。 


【ほかの職種の人との連携】 

~だんだん保健師の役割が整理できてきた~ 

山本:長い間保健師が続けてこられたのは、まず自分が健康であることっていうのが一番だったのと、家族も健康で両方の両親の介護もなかったからです。恵まれていたと思います。
また、天然な性格と仕事のオンとオフの切り替えができたのが良かったかなと思っています。

知夫村では、お互いの信頼関係のもと保健医療福祉介護職の連携が密で、楽に仕事ができたと思います。
歴史を遡れば、保健師や看護職、そして介護職の増員や介護保険制度などの制度の充実などにより、保健師本来の仕事・調整役ができるようになったと思います。

 それでも大変だったでしょうって若い方に言われるのですが、少しずつ自分のやらんといけんことが整理できるようになってきて、連携会議なんかもでき、体制づくりができたと思います。


【研修の予算も計上してもらいたい】

 山本:保健師は専門職なので研修もどんどん予算を計上してもらいたいと思います。

分藤:人脈もとても大切ですよね。外の世界と繋がっていくことは大事だなあと思います。 


【距離が近いがゆえの魅力と困難】 

戸谷:小規模な自治体ですがデータヘルスの時代、やはり保健活動の実績は手計算ではなくシステム的なものが求められています。県や国との一体的な取り組みや精度管理の標準化に必要なんでしょうね。長期的な管理においても、これからはデータ化することが重要だと思います。

あとは連携連携といわれるけど、ここのいいところは診療所も近いしみんなの顔も名前もわかっているし教育委員会ともやりとりが密ですし連携のしやすさはいいところです。役場も普段から行ったり来たりがあるから、活動の中でちょっとした相談もしやすいし。新しく入った私にとっては、やりとりしやすい環境が関係性を築くのにはよかったと思っています。

ただ、仕事関係者とも住民とも、近い距離感で接する良さと、やはりプライバシーをどう守るか、といったところはより一層配慮する必要があると感じています。

連携が容易である反面、情報提供の難しさ、連携先の職員さんやその家族・親戚の健康課題に関わっていることもあったり、直接かかわっていなくても要支援者として把握だけはしている、のような色々な状況もあるので…。 よく知っているからこそ、ここまで知っているけどここまでしか話せないとか。介入がしにくいとか。そういう困難があります


チャレンジしていること・これからチャレンジしたいこと

山本:海士町(※ざっくりマップ参照)では、60代~70代の女性の方々が、“ばっばの会“を結成され、郷土料理を若いお母さんたちと一緒に作る活動をされています。女性たちは料理を教えるグループと、子守りをするグループに分かれ、その女性たちは始終笑顔で、子どもや若い世代との交流を楽しみ、生きがいを感じていました。

 私も今後、知夫村でも声掛けをして、“何かしたいな”という方々と一緒に知夫版ばっばの会を作り、高齢者の生きがいにも繋がる、知夫での子育ての支援の一役が担えたらと思っています。お母さんたちが外に出てリフレッシュし、知夫の良さを知ってもらい、知夫に住んで良かったと思ってもらう機会になれば。

こんな未熟な保健師が島外からきて、長い間、知夫の皆さんに育て支えていただいたので、今度は知夫に恩返しができたらなと思っています。この活動により子育ての輪が広がり、居場所づくりが出来ればと思っています。 


戸谷:今、島前地域に全国から色々な人たちが来ていて、さらには保健医療の専門職もやってきている状況を見て、地域を学びながら仕事をしたいと思う人が私を含め結構いるんだなと感じています。地域特性への配慮や活動の独自性を追求しながらも、誰が来ても仕事が回る、というベースを整えていきたいです。

知夫村の保健師活動の歴史に学びながら、それぞれの事業の目的に立ち返りながら、今後も継続可能な知夫の保健医療福祉の体制を考える必要を感じています。

本当に、離島という条件下での活動って、本土から来た私からしたら思わぬ困難があるんですけど、面白さを見つけながら頑張っていける保健師が来れるように整えていけたらと思っています。 


分藤:保健師として採用されてから、目標を決めていました。

1年目はとにかく自分の身体で島を地域を感じとにかくこの島を知りたい。2年目は、人材探しを始めようと考えていました。3年目は仕事を次に引き継げる方法を考えたいなと。

今3年目です。山本さんから引き継いだ物を、紙ベースからデータへの変更に苦戦しているとことろです。引き継ぐということを考えると、次の世代のやり方を学ぼうと、今は若い戸谷さんに教わることの方が多いです。 

私は、島で保健師なりたいというよりも子どもたちのことが最優先でしたので、保健師は単なる職業、生活の糧を得る手段だと割り切っていたところがあります。しかし、実際こうしてやってみると・・・面白くなってくるんですね。 

移住する前は、病気をきっかけにフルタイムでの働き方はしてなかったので、思わぬチャンスを頂き、ここで「保健師」としても育てていただいた気がします。 

私自身のこれからなんでが・・・この春、息子が島前高校(※ざっくりマップ参照)を卒業し、子育てから大きく解放され、一人での生活が始まる予定です。ここからが、自分のやってみたいこと・自分の夢に挑戦できると思っています。私は、死ぬまで仕事をしていたいので・・自分の事業を立ち上げようと考えています。

この島では、そのような起業を考える人向けの援助やチャンスがあるんです。ここで、チャレンジしている仲間と出会い刺激をもらっています。
今は今の仕事と生活で精一杯ですが、一人になったら・・・と夢が膨らみます。 


やってみたい人がやりやすい環境をつくりたい

 山本:わたしの保健師時代のやり方を、若い保健師さんたちに押し付けることはしません。今は働き方改革の時代ですので、次の方たちが考えて仕事をしてもらったらいいかなと思います。

でも住民主体の活動ということだけは引き継いでいただきたいなと強く思いますね。住民の方のエンパワメントってすごい力があると思うので。保健師が地区の実態を住民に示し、住民と課題そしてどんな地域にしたいかと考え語り合うことが、地区の健康を守る活動であると思います。住民が動くこと、イコール住民が納得すること。それが一番健康づくりを進め継続していくと思いますし、保健師自身も住民から学び、保健師を続けられる原動力にもなると思います。

ぜひ、この住民主体の活動は、若い保健師さんに繋いでいって欲しいなと思いますね。 

分藤:仕事をつないでいくということをしないといけないんだろうなあと思います。その方法をつながって、一緒に考えていけたらいいのかなと。
島では急に管理的な仕事をしたり、イレギュラーなことも起きる環境だけど。自分でなにかしたいと思う人にはとてもむいていると思います。

やってみることの価値はある。

 山本さんはずっと働いてきた、けど都市部でも2-3年でやめたりするじゃないですか、転職が当たり前。人生100年っていったら、転職するのは当たり前になるじゃないですか。多分。私はライフイベントごとに働き方を変えてきたので・・

34年の歴史を引き継ぐことは、重かったですね。一人で長年仕事を擦るとは…ということを学ばせて頂きながら、保健師の知識に加え、管理・調整の能力が身についたと思っております。この力で、次なる目標に進みたいと思います。 


【聞き書きによるINTERVIEWを終えて】

松本朝子:聞き書きライター/
愛知県出身、島根県松江市地域おこし協力隊として2019年11月まで3年間活動。大学や自治体と協働で、地域の伝統文化や暮らしを聞き書きにて記録し発信する活動を行っている。1児の母。 


松本:知夫村の保健師さんたちの取材をさせていただき、改めて保健師さんたちの存在の大きさやカバーされる範囲の広さに驚きました。離島という環境での暮らしや仕事は都市部で働かれるのとは環境も異なる分人間的に試されたり学びを得ることも多いととらえていらっしゃる姿がとても素敵だと感じました。人相手の仕事に正解はないといわれますが、やれることから挑戦し続ける知夫村のみなさんの姿は、まさにこうありたいと様々な人々に勇気を与えてくれるのではないでしょうか。 


\\記事掲載の前に、戸谷さんから嬉しい報告が届きました!//


戸谷:この春に大学院を卒業しました。試験前は大荒れで欠航したりしてひやひやしましたけど…。大学では理論やいろいろな立場から多角的に看護を考える機会に恵まれたように思います。

島で頑張ると言って応援してくれた大学にも、大学院で学ぶことに理解を示してくださった職場にも、感謝して、保健活動の地域での実践と結びつけながら努力していけたらと思います。

知夫での生活もいっぱい楽しみたいです。



編集:松本朝子・五藤幸根

取材・グラフィック:松本朝子

NPO法人へき地保健師協会

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